水 鏡 3
「コエンマ様が魔界へ連絡を取りました」
静かに、表情を変えることなく淡々と言う男に、閻魔大王は静かに頷いた。
「そうか…………」
しかしそれ以上何も言わない閻魔に男――瞬樹(しゅんき)はうかがう様に言った。
「よろしいのですか? 妖怪に、あの力が渡るかもしれません。そんなことになれば――――」
「瞬樹」
「……はい」
瞬樹の言葉を遮ると、閻魔は遠くを見る目で続けた。
「あの力は元々妖怪のものだ。……人間界と魔界の間の結界を解いて数百年。人間と妖怪は上手く行っている――――もちろん我ら霊界人も。もうそろそろ……返すべきだろう、あの妖怪に」
「危険です」
間髪いれずに言った瞬樹に、閻魔は驚いた表情も見せずにゆっくりと問う。
「何故そう思う」
「何故と? ……その様なこと、分かりきっているではありませんか」
妖怪にあの力が戻れば、それを使って何を考えるか分かったものではありません。
「その妖怪が……世界を制する気がないと言ったとしてもか?」
「考えは変わるものです。いったいどれだけの時間が経ったと思っているのです。今でもその考えだと、どうして言えるのです」
自身の考えが正しいと思っている。そんな声音だった。
実際、閻魔自身も以前はそう思っていた。
迷いなく言い切った妖怪の言葉を信じず、本当に力を奪ってしまった。
その後もその妖怪は強いままだったが、なんとか霊界でも対処できるほどではあった。
それでも『なんとか』だったために、監視は続けていた。
そして――――――適当な理由をつけてその生命まで奪おうと、霊界の元に置こうとし、実行に移した。
けれど、手元におくことは出来ずに終わった。
その後も何度か機会を窺ったが出来なかった。
その妖怪は用心深く、二度もそんな機会を与えてはくれなかった。
それどころか、取って置きの切り札までも手にしていた。
それによって閻魔が動けなくなることが分かっていながら――――。
だからと言ってその妖怪は一切動かなかった。
“一切”と言うのは語弊があるかもしれない。
けれどその表現がぴったり来るほどに、妖怪は霊界を窮地に追いやることはなかった。
むしろその反対だった。
――――そこまで見せられても、信じることは出来なかった。
向こうもそんな自分を知っていただろうと閻魔は思う。
勘の鋭い妖怪だ。何より、柔軟に物事を考えることが出来る。
だからこそ今まで生きてこれたのだろうと閻魔は思っている。
ただ強いばかりでは生きていけない。それが魔界だ。
「閻魔大王様がどう言われようと、私の考えは変わりません。――――他の者も。あの力を得た妖怪達は、必ずや霊界に牙を剥きます」
私達はそれを阻止したいのです。霊界人のために――――――そして、人間のためにも。
まっすぐに自身の目を見て言い切る瞬樹に、閻魔も同じように見る。但し何も言わなかった。
それをどう取ったのか――――肯定か、否定か。
ただ分かることは、瞬樹は閻魔のその視線を受けても平然とし、己の考えを一切変えずに行動に移ろうとしていること。
そして閻魔自身は何も出来ないこと――――。
「失礼します」
そう丁寧に頭を下げながら言った瞬樹は、来た時と同じように静かに出て行った。
その姿を目にしながら、閻魔は瞬樹の言った言葉に眉を寄せる。
「閻魔“大王様”か……」
その称号がなくなって久しい。
今でも当時閻魔の下で働いていた者たちはそう呼ぶ。
けれど、瞬樹のそれは純粋に呼び呼び慣れているからとは感じなかった。
どうかすると魔界と協力関係を結んでいるコエンマに対しても、妖怪に対してと同じ感情を抱いているのではと不安にさせる。
表面上はそんな素振りは見せないにしても、前例があるだけに楽観視は出来なかった。
出来ればあの者達には動かないでもらいたい。
あの妖怪に、力が戻ることを止めないで欲しい。
あの状態ではありえないだろうな、と内心で己の考えを否定しながらも閻魔は思わずにはいられない。
瞬樹が出て行った扉を見ながら、閻魔はため息をついた。
絶対に……あの妖怪を殺してでも止めようとすることは、先ほどまでの会話で明らかだ。
瞬樹は今でも妖怪を悪だと思っている。
自分がそうなるようにしてきたとは言え、今でも影響が残っていることに嘆かずにはいられない。
(自業自得……か)
自嘲気味の笑いを漏らす。
「まさかこんな事態になるとは考えていなかったからな」
けれど、実際に起こってしまった。
「だが、結界を解いてから経った時間を考えれば……むしろ遅すぎたくらいだ」
椅子に深く座りなおし、閻魔はひとり呟く。
窓の外に目を向ければ――――遠くで雷が鳴り始めていた。あと少しすればこちらも同じ天気になるだろう。
そうそうあるものではない、霊界では。
だが、荒れ模様になることは明らかだ。その原因は――――
「あの力の影響か。……まだこれだけで済むなら影響は少ないほうだな」
それだけの影響力を、あれは持っている。
独り言を続けていた閻魔はしかし、それ以上何も口にしなかった。
(今にもっと影響を受けることになる。霊界も人間界も――――魔界も。……それを止めるためには、早く“力”を探し出す以外にない)
――――――そして、本来の持ち主に返すしかないのだ。
厳しい表情で、閻魔は空をにらんでいた。
先ほど瞬樹に言ったように、現在の閻魔はそのことが霊界にとってマイナスになるとは考えていなかったし、昔、あの妖怪の言った言葉が事実であることも信じていた。
だから、今ならあの妖怪に全ての力を返してもいいと考えている。
コエンマの行動を止めようとは考えていない。
(しかし――――あの妖怪を覚えている者は、わし以外には本人しかいない)
それが問題だった。
誰もあの妖怪のことを知らない――――つまり、力を見つけ出しても返す妖怪が分からなければ、三界への影響は続く。
間に合わなければ滅ぶだろう。
そんな考えに至った閻魔は、自分が何をしなければいけないか――――伝えなければいけないかが分かっていた。
――――あの妖怪の名をコエンマに伝えること。
(しかし……今わしの周りにいるのは妖怪を悪と考える者たちばかりだ)
結界が解かれ、閻魔のしてきたことが明らかにされて数百年。それでもまだ妖怪を認めないものは多数存在していた。
特に閻魔の周囲には多かった。
何故こんなにも集まってきたのかと思ったが、彼らは表面上、妖怪の存在を認めるふりをしていた。現在霊界を治めるコエンマの前では特に。
しかし、閻魔は彼らの本当の考えを知っている。
彼らも閻魔の前では隠そうともしない。――――閻魔が今、何の力も持っていないことを知っているからだ。また、言うつもりがないことも。
コエンマに手間をかけさせないようにしていることを知っている。
だからコエンマはこのことを知らない。知っていたら放置してはいないだろう。
(だから言えんのだ)
罷免され、それまでしてきた罪のために、今でも閻魔は司法部の管理下におかれていた。コエンマとですら、会話をするにも見張りが同席していた。手紙にも検閲がかけられている。
そして、それらを行うのは瞬樹を始めとする妖怪を悪と思っているものたち。
そんな者たちに、あの妖怪の名を知られるわけにはいかない。
(もし知られてしまったら――――――力の戻る前であれば、危うい)
いくら力を持っていても……
そう考えた閻魔は言えなかった。コエンマに伝えることが出来なかった。
それが引き起こすことが――――良いことも悪いことも簡単に予測が出来て、閻魔は外から視線を外し、大きくため息と付いた。
「すまない――――――」
そう誰にでもなく謝罪の言葉を口にするしかなかった。
◇◆◇
いつも以上に大きな雷鳴に、眠っていた蔵馬は目を覚ました。
けれど、やはり眠る前と変わらない体調……ともすれば強くなっているだるさにため息をつく。
「まったく……」
雷が止めばしんと静かになる部屋に、蔵馬の声が響いて消えた。そうすると、大統領府の音が微かに聞こえる――――はずだった。
黄泉ほどではないが、耳のいい蔵馬。普段より聞こえる音の少なさに首をかしげた。
「仕事を放り出したのか……?」
以前までは目を離せばすぐに書類仕事を放り出して、修行と称して外に行ってしまう輩が多かった。
ここのところの自分の体調の悪さにそういうことも少なくなっていたが、それでもストレスが溜まり、爆発してしまったのだろうか?
そんなことを考えたが、彼らが良く手合わせをしている外からも声は聞こえない。
静かなものだ。
それに気付いた蔵馬は外を確認しようとして再び起き上がろうとするが、急な胸の痛みにそれは叶わなかった。
「っ…………」
枕に顔を押し付け、その痛みに耐えるしかない。
そしてふと、この痛みの理由に思い当たる。
可能性、と言ってもいいだろう。
自信はない。けれど、たった一つだけ……この痛みの理由が思いついた。
「まさか……」
そんなはずはないと、口にしようとしてやめた。
今考えられることはそれ以外になかったし、それ以上何も考えることが出来なかったからだ。
……考えたくはなかったけれど。
もし、胸の痛みが本当に考えているものが原因だったとしたら……口にすれば更に事態が悪いほうへと進行する気がした。
“言霊”など、蔵馬は普段意識していない。けれど、決して“ない”とは思っていない。
蔵馬の言葉がそのまま“なる”ことはまずない。
そしてそれが出来る妖怪や人間にも会ったことはない。
けれどそんな大きな物ではなく、小さなこととしては実際目にしたこともある。
自身の考えた“理由”は決して小さなことではない。むしろ現実になれば大きなことなのだが、過去を振り返ればそれはありえないだろうと……“そんなことになるはずはない”と考えていた。
けれど――――
『ありえないことなんてない。あらゆる可能性を考えて行動しなければ、今頃俺はいなかった』
蔵馬は、以前何かの折に自身が言った言葉を思い出した。
自身の信念だが、それが今自分に跳ね返ってきているような気がした。
「…あらゆる……可能性」
もし……もし、過去がどうあれ、この状態を説明できる理由を考えれば、一番に思いつくのはやはり“あれ”だった。
どんなに大丈夫だと思っていることが関わっていても、一番は変わらなかった。
けれどそれがもし事実であれば――――最悪の事態が起こっていることになる。
望んでいなかった事態。
約束したもの。
そんなものがいっぺんに自身に向かってくることに、蔵馬は動揺する。
けれど――――――今の蔵馬にはどうすることも出来なかった。
対処することも、避けることさえも。
それこそが自身の予想を裏付けていることに気付いて、蔵馬は苦々しく思う。
それでもどうすることも出来ない。
今の蔵馬に出来ること、それは文句を言うことくらいだ。
「ああもう……何をやっているんだ、――――は……」
蔵馬はかろうじて窓から見える外の景色を見ながら呟いた。
全てが――――――魔界(ここ)に集まろうとしている。
– CONTINUE –