望み
『ほら御覧なさいな』
『ああ、あの方が通天教主様の……』
『どれほどの力をお持ちなのかしら』
『さあ? けれど教主様程ではないのではなくて?』
『それもそうでしょうね。教主様のお子だからといって力があるとは思えないし。』
――――――何より、どこのものとも分からぬ女が産んだ子だもの。
耳障りな言葉を平気で吐く女たちを視界の隅に入れながら、私は通天教主の子――――楊ゼンを見ていた。
生まれてそれほど経ってはない子は、大人しく、ただぼんやりと空を眺めていた。
けれどその瞳は何も映してはいない。
空は見えているだろう。
けれど、そこに何の感情もこもることはない。
ただ、見ているだけ。
瞳に映るだけ。
――――――“映す”ことはない。
「楊ゼン様」
「――――――――――――蘭零」
名前を呼べば、楊ゼンはゆっくりと振り返って私の名を呟く。
微笑みながら近付き、いつもと同じ言葉を言う。
「教主様が心配なされます。お部屋へ戻りましょう」
「……うん」
小さく頷き、同じく小さな声で楊ゼンは言うとゆっくりと立ち上がる。
さっきまでその辺にいた女たちはどこかへと姿を消していた。
きっと、私が楊ゼンの側にいるからだろう。
彼の世話役の私に楊ゼンをけなすような言葉を聞かれ、もし通天教主に報告されたらどうなるか――――――そんな心配でもしているのかもしれない。
けれど残念なことに私はあの女たちの会話を最初から聞いていた。
それに楊ゼンも聞こえていただろう。
何も反応しないのは、そうしたところで状況が変わるわけではないと知っているから。
楊ゼンの何倍も生きた妖怪たちより、楊ゼンは頭がいい。
自分がどんな立場にいるのかも、どれだけの力を持っているのかも、全部理解している。
楊ゼンは通天教主と同じくらい、もしかしたらそれ以上の力を秘めている。
それを知らせればあの女たちからどんな反応が返ってくるか知りたいとは思う。
けれど、そこまでする義理はない。
私がしなければいけないことはただひとつ。
金鰲と崑崙の戦いが始まった。
何のための不可侵条約だったのだろうと思う。
何のために、私がしなければいけなかったことを諦めてまで結んだというのか。
何のために、楊ゼンを崑崙へ預けなければいけなかったと思っているのか。
何も知らない元人間たちは、全てを壊そうとしている。
「まあ、いいけどね」
楊ゼンが無事であれば。
「それ以外望むものなんてないわ」
ぽつりと、私はほかに誰もいない島の中で外の様子を映したモニターを見ながら呟いた。
何百年も前から、私はそれだけを望んできた。
それは通天教主の命令で楊ゼンの世話役になったからではない。
通天教主がどんな考えを持っていようと私には関係ない。
私が欲しいのは、ただ――――――
小さな手だった。
初めて会ったときの、生まれたばかりの楊ゼンは小さかった。
初めて見る“妖怪の赤ん坊”だった。
同じ妖怪たちからも敬遠されていて、仲の良い道士なんていない私に初めて楊ゼンは幼い笑顔を向けてくれた。
何もかもが初めてだった。
そして、それを守りたいと思った。
それなのに……今は敵同士。
しかも向こうは天才道士にまで成長してしまっている。
私が彼の敵として前に出なければいいのだけれど。
王天君が見逃してくれるかどうか……。
そんなことを思いながら、金鰲に入り込んだ懐かしい気配を遠くに感じて、私は一時姿を消すことにした。
今の楊ゼンならそれほど心配しなくても生き残れると思う。
元々、潜在能力は高いのだし。
逆に私がいれば、変な方向に事態が移ってしまいそうだ。
そうならないためにも、今は私はいない方がいい。
そしてその時が来たら――――――彼の力になろう。
それが私が楊ゼンのために出来ることだから。
– END –