escape
「師兄ー!! 楊ゼン師兄ーーーー!!!!」
まだ少女と言って良い高さの声が天上の高い廊下に響く。
それに驚いて足を止めるものもいたが、たいていまたかという様な呆れた表情を浮かべて再び歩き出す。
実際、その『また』なのだが――――――。
「蘭零」
「あ、竜吉公主様」
ふよふよと浮かんでいた竜吉に名前を呼ばれ、早歩きをしていた足を止める。
「そんなに急いでどうしたんじゃ?」
笑みを浮かべながら問う竜吉に、ふてくされながら蘭零は言う。燃燈道人の姉である竜吉公主に言っていいものかどうか、普段の蘭零であれば少しは考えたかもしれない。しかし今はそこまで頭が働かないようで、竜吉に現状を訴える。
「教主が仕事をサボってどこかに行かれてしまいました」
「…………それで、蘭零が探していると?」
「はい」
蘭零の表情に思うところがあったのか、苦笑しながら竜吉は反応する。
「それはまた…………最近良くあるのう」
「ありすぎて仕事が滞っているんです!! 私が見張っててもちょっとした隙にいなくなってしまって……叱られるのは私なのに!!」
ゆったりとした竜吉の言葉に返せば、一旦落ち着いていたように見えた怒りがまたよみがえってきたようで、蘭零はその場で地団太を踏んだ。
そんな蘭零を苦笑しながら竜吉は少女を眺めていた。
「まあまあ……。燃燈には私から言っておくから、蘭零は教主をはよう探しておいで」
もちろん蘭零を叱らないようにも言っておく。
そう言うと、蘭零はあからさまにほっとした様子を見せて、お願いしますと頭を下げて駆けていった。
その後姿を見送りながら、竜吉はかすかに笑みを浮かべていた。
「まったく……相変わらずじゃ」
そんなぽつりと呟かれた言葉を聞いた者はいなかった。
それからあちこち回って、出会った仙道であれば誰彼構わず楊ゼンを見なかったか聞いていけば、ようやく十何人か目の者が教えてくれた方角で楊ゼンを見つけることが出来た。
「師兄」
「ああ、蘭零。――――――よく分かったね」
木の根元に哮天犬を枕に、楊ゼンは横になっていた。
蘭零が怒っていることなど分かっているだろうに、楊ゼンは見つかったことに慌てるでもなくのんびり言う。
それにはもちろん蘭零はカチンと来るわけで。
「何やってるんですかーーー!!!!!!」
叫び声が仙界を駆け巡ることになる。
とは言うものの、楊ゼンはまったく驚いた様子も見せない。飼い主に似たのか哮天犬も。遠くにいた仙道たちは目を剥いていると言うのに……。
しかし蘭零はそんなこと気にも留めずに叫び続ける。
「自分の立場をちゃんと分かっているんですか、師兄は! もう、毎回毎回何度も何度も抜け出して!!! 仕事は溜まるんですよ、後で缶詰になるんですよ、そしたら師兄の休みがなくなるんですよ!!! それでもいいんですか。いくら仙人だからって、絶対体壊しますよ!!!!!!!」
ぜいぜいと、思いっきり叫んで息を切らす蘭零。
それに苦笑しながら楊ゼンは身体を起こし――――
「え、ちょっ……!!!」
腕を引かれて蘭零はそのまま楊ゼンの横に無理やり座らされる。
「まあまあ、蘭零。そう言う蘭零は働きすぎだよ」
僕が休憩してても働いてるし。
「それは師兄がサボるから――――――」
「そうじゃなくて、休憩時間でも、だよ」
「…………」
「どうして?」
「…………別に」
先ほどの饒舌さはどうしたのか、蘭零は小さな声で呟いただけだった。
そんな蘭零に楊ゼンは首を傾げつつ……口を開いた。
「そんなに急ぐこともないよ。僕達にはどうしたって、時間は沢山あるんだから」
まだ、神界には行けないんだから。
「師兄……」
楊ゼンの言葉に、蘭零はふっと顔を上げた。
楊ゼンの言葉の意味するところを伺うように。
「まだ師匠とは一緒にいれないからね」
そして楊ゼンから漏らされた言葉で、彼が何を言いたいのかが蘭零には分かった。
そう、きっと蘭零が忙しなく動いている理由を、楊ゼンは彼らの師匠と一緒にいたいがため――早く彼と共にいたいからだと思ったようだ。
「違う!!」
その考えにたどり着いた途端、蘭零は楊ゼンのその勘違いをすぐに正すために叫んでいた。
「え?」
その声に驚いたように、楊ゼンは蘭零を見る。
それにはっと気付いて、蘭零は自身を落ち着かせるように一度息を吐いてから口を開く。
「……別に、ずっと働いているのは師匠がいないからじゃありません」
早く時間が過ぎて、神界行きたいからでも……ないです。
「え? じゃあ、どうして……」
蘭零の言葉に楊ゼンは首を傾げる。やはり蘭零が思ったとおりに楊ゼンは考えていたようだ。
しかし、その理由を問われると蘭零は口を閉ざしてしまう。
「蘭零?」
楊ゼンが名前を呼んでも蘭零は口を開かない。
それを不思議に思って楊ゼンが蘭零の顔を覗き込むと、視線をそらしたその顔はわずかに紅潮していた。
そんな蘭零の表情を確認したが、楊ゼンは何も言わず……ただ、蘭零を見ていた。
どれだけそんな状態が続いただろうか。
静かにただ座っていた蘭零が口を開いたことで、その状態は終わった。
「…………早く仕事が終われば、師兄と仕事以外で一緒にいれるじゃないですか」
――――――
「え?」
長い間のあと、楊ゼンは珍しい種類の声を上げた。
蘭零の言葉を反芻し、ようやく意味を正確に理解した楊ゼンは蘭零と同じく顔を赤くした。
「師兄……何とか言ってください」
「何とかって……言われても……」
楊ゼンはそんなことを呟きながら蘭零から視線をそらす。
けれど今度は蘭零が楊ゼンの顔を覗き込む。開き直ったようだ。
そんな蘭零の行動を楊ゼンはもちろん分かっていた。分かっていたが、どうすることも出来ず……結局、さっきの蘭零と同じようにしか反応が出来なかった。
「それじゃあ、そのために戻ろうか」
そう言うと、楊ゼンはそれ以上は言わずに蘭零の手をとると執務室へ戻るため、蘭零が来た道を逆に歩き出した。
執務室に着くまで、決して蘭零に顔を見られないようにしながら。
– END –