5. 虹
「あ」
「慈雨? どうかした?」
急に声を上げた慈雨を不審に思って蔵馬は声をかける。しかし視線の先の慈雨は斜め上を見上げながらぽかんと口を開けていて、それ以上の反応はない。
「慈雨?」
もう一度名前を呼ぶ。そこでようやく蔵馬に視線を移した慈雨は微かに笑みを浮かべていた。
「どうしたの、何だか嬉しそう」
「……ああ」
恥ずかしさのせいか蔵馬の手をとって再び歩き出した慈雨に引っ張られながら、蔵馬は慈雨が見上げていた方に目を向ける。
「――――――虹?」
「――――そう」
何の変哲もない虹が空にかかっていた。別に慈雨がそれに気をとられる理由はないような、普通の虹。特に綺麗なわけでも大きいわけでもない虹。ではどうして慈雨は気をとられたのだろうと蔵馬は思う。
「あの虹がどうかしたの?」
「……別に」
「別にって……立ち止まった時点で別にじゃないでしょ」
呆れ、少しすねたような声を出す蔵馬。同時に握られた手を握り返す。もちろん力いっぱい。
「痛いぞ」
「そんなわけないでしょう。オレは慈雨より力弱いからね」
「………………分かったよ。言うよ」
「嫌ならいいけどね」
「それ、本気で言ってるのか? ――――――昔、蔵馬が生まれる前のことだ」
◇◆◇
「喜雨ねえ……」
「慈雨? どうしてここへ――――――」
魔界と人間界を繋ぐ空間を通り抜けて人間界へ降り立った時、背後から聞こえないはずの声が聞こえて喜雨は慌てて振り返る。するとそこには目に涙を溜め、不安そうな顔をした喜雨の弟――慈雨。慌てて喜雨が名前を呼ぶと、慈雨は喜雨に駆け寄って縋りつく。ぎゅっと喜雨の着物を握り締め、放そうとはしなかった。
「慈雨? ――――付いて来てしもうたのか?」
「…………ごめんなさい」
びくりと肩を震わせながら慈雨は謝る。それでも喜雨の着物を放そうとはしない。そんな慈雨を見下ろしながらどうしたものかと悩んでしまう。しかし、既に魔界への道は閉じている。頻繁に空間を空けてしまうと後でうるさいことになる。かといって自分自身の力を使って空間を作ると喜雨自身も一度魔界へ戻らなければいけなくなる。その後に再び同じ方法で来るには現在の力では辛い。
ではどうすべきか。
残っているのはひとつだけだ。
「慈雨、付いて来てしまったのであれば仕方がない。まだ魔界へ戻るわけにはいかぬから、少々付き合っておくれ」
「…………」
「慈雨?」
喜雨の言葉に顔を上げた慈雨は、目を丸くして喜雨を見て、無意識のうちに握っていた着物まで放してしまった。
自由に移動できるようになった喜雨は、さっさと身を翻してしまう。
「喜雨ねえ?」
慈雨は喜雨の動きに付いていけず、ぼんやりと見ているだけだった。
「何をしているのじゃ、慈雨。付いてこぬとはぐれるぞ」
「う、待って!!」
慌てて喜雨の後を追う慈雨。喜雨は決して待とうとはしない。――――それでもいつもよりはゆっくり歩いていることに慈雨は気付いているだろうか。
「喜雨ねえ?」
「何じゃ」
「…………どこに行ってるの?」
遅れそうになりながら……一生懸命についてくる慈雨。そんな慈雨がこけないように手を伸ばす喜雨。その手をとりながら不思議に思っていたことを慈雨は聞いた。
「少々用事があってのう…………」
今二人がいるのは森の中。道などない場所を、喜雨は悩むことなくどんどん進んでいる。
「用事?」
「そうじゃ。――――――人間界にしかないものというのも、多々あるのでな」
「??????」
「まあ、行けば分かる」
「…………うん」
森の中なので、人間以外の生き物は多数存在する。慈雨たちと同じ狐も――――しかし、喜雨はともかく慈雨は妖気を抑えてはいないので、それに怯えているのか警戒しているのか、生き物達が出てくる気配は一向にない。それでも気配は感じるので、慈雨はきょろきょろと辺りを見渡している。
魔界とは違って、薄暗いながらも陽が照っていると分かる。澄んだ空気の中、慈雨は初めての人間界を楽しんでいた。
そう簡単に来ることは叶わない場所。慈雨は来たいとも思ったことはなかった。命のやり取りも慈雨にとってここにはない。そんな安穏とした場所に興味もなかった。けれど――――
「喜雨ねえ…………」
「うん?」
「綺麗だね……植物とか」
動物とか。
「――――そうじゃのう」
慈雨の言葉に驚いて目を丸くし、そしてふっと笑みを見せて喜雨は言う。
それに慈雨は嬉しそうに跳ねた。喜雨はそんな慈雨と手を繋いだまま、周囲に気を配りながら歩いていく。
そしてまた一時歩くと、二人は開けた場所に出た。
「わあ…………」
慈雨が感嘆の声を上げた。
慈雨たちの目の前には真っ白な花が一面に咲き誇っていた。
「喜雨ねえ……これは?」
「この花はのう……万病に効くとされる花じゃ。――――まあ、我ら妖狐一族にだけ伝わるものじゃがな」
他のものは知らぬだろう。
「知っておったらここまで残ってはおらぬだろうな」
そう言いながら喜雨は歩を進めた。そして咲き誇った花の中に入っていく。
「喜雨ねえ?」
「慈雨はそこにおれ。ここに危険はないからのう」
「うん」
頷いた慈雨は素直にその場に残った。その場にしゃがみこみ、白い花を眺めている。そんな慈雨を確認した喜雨は、小さく笑うとどんどん進んでいく。そしてある程度進んだところで立ち止まり、慈雨と同じような格好に座り込んだ。それからいくつかの花を選び、根元から抜いていく。それはこの植物の根も薬になるからだ。慎重に抜いたそれを喜雨は自身の空間へと移す。そうすれば魔界へ戻るまで枯らさずにおくことができる。
そうやって必要な数だけ採ると、それ以上手をつけることなく喜雨は慈雨の元へ戻る。
と、
「わあ!!!」
「慈雨?」
急に声を上げた慈雨に驚いて喜雨は慈雨を見る。すると慈雨は立ち上がって空を眺めていた。
「――――――ああ、虹か」
喜雨が見上げると、そこには虹がかかっていた。――――それほど、大きなものではなかったけれど。
「にじ?」
「そう、虹じゃ。――――雨が降った後に晴れておればたまに見ることが叶うものじゃ」
魔界では見ることは出来ぬのう。
そう呟きながら喜雨は慈雨の元へ行く。
それでも慈雨は空を見上げたままだ。
「……慈雨?」
一向に動こうとしない慈雨に首をかしげながらも名を呼ぶ喜雨。
それでも虹を見上げたままの慈雨を、用事が終わったからと言って置いていくことは出来ない。仕方なく、喜雨は慈雨の横に腰を下ろすしかなかった。そうすれば、慈雨も同じようにその場に座る。
そしてそのまま虹が消えるまで慈雨は動くことも口を動かすこともなかった。
◇◆◇
「それで?」
「うん? 別にそれだけだけど……」
「はあ?」
慈雨の話を聞き終わった蔵馬は、結局話の意味が分からずに聞く。けれど、慈雨からそれ以上言葉が返ってくることはなかった。
「…………じゃあなんで虹を見てその話になったの」
「あ? ああ、だから、その時初めて虹を見たわけだ」
「うん」
「その時の虹と似ているような気がしたから…………かな」
「覚えているの?」
その時の虹を。
「全然」
「…………」
その言葉に蔵馬は額を押さえた。
「それでどうして――――――」
「いやー、なんとなく虹見てたら思い出したから」
「あ、そう」
「いいじゃねえか、あれが初めて人間界に来たときだったんだし」
誤魔化すように慈雨は言う。それに蔵馬は「それはそうだけど」と呟いた。
「あ、それはいいんだけど。どうして喜雨姉様について行ったの?」
「…………」
「慈雨?」
急に黙ってしまった慈雨を不審に思った蔵馬は慈雨を見る。と、その慈雨は目を反らしていた。
「…………慈雨?」
「――――――――――――寂しかったんだよ」
「はあ?」
「だから、姉貴はあの当時から出かけることが多くて……親はもういなかったから、寂しかったんだよ!!」
「――――――寒凪兄様とかいたでしょう?」
「血、繋がってないじゃん」
「そりゃあ、そうだけど」
でもひとりじゃなかったでしょう?
そう言う蔵馬に慈雨は苦虫を噛み潰したような表情をする。そんな表情をしながらも、それ以上何も言わない慈雨に蔵馬は苦笑しながら言い切った。
「シスコン」
「蔵馬だってブラコンのくせに」
――――――――――――
それから。
いつものようなやり取りが始まり…………
「何をやっておるんじゃ、あの二人は」
「さあ?」
たまたま喜雨と寒凪に見つかるまで、延々呆れるほど言い合っていたとか。
– END –